秋田美人研究メモ⑤秋田美人総括

秋田美人と言う言葉が出来たのは明治から昭和初期に花街(川反)のひとつの宣伝の仕方として出来てその後新幹線が出来た事で外部の人たちに広まった。

人の行き来が容易でなかった時代に雪深い国の色白の美人というのは人々により幻想的に伝わっていった。

当時はイチ個人として『~置き屋のOO子』の様に宣伝するよりも『秋田美人』などとして宣伝した方が効率的だったのだと思われる。

(○○美人とつくものはざっと挙げるだけでも津軽美人・庄内美人・会津美人・越後美人(新潟美人)・金沢美人・京美人・名古屋美人・博多美人。。。かなりの数がある。)

国体や、石油の一大拠点などで秋田へ訪れた人達をもてなしたのは花街の女性たち、いわゆる川反舞妓と川反芸者の人たち。

その芸やおもてなしに満足して地元へ帰った方達が秋田美人をより一層根付かせた。

そして太平洋戦争を経て、川反舞妓、芸者の数が少なくなるにつれて注目され始めたのが一般人。いわゆる『秋田おばこ』と呼ばれる人たち。

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木村伊兵衛「市場にて・大曲」昭和28年

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木村伊兵衛「おばこ・大曲」昭和28年

昭和28年写真家、木村伊兵衛の撮影した『秋田おばこ』の写真が言葉も無しで人々に『秋田美人』を印象付けた。

秋田おばことは明確な定義は無いが、おばこ(意:おぼこい、娘)から推測するに花街などに働いていない生娘の様な事だと推測される。

秋田民謡おばこの歌詞では「おばこなんぼになる、この年暮らせば十と七つ…。」と謡われるので17才くらいの一般女性と思う事もできる。

圧倒的に農家が多かったためか、秋田おばことして出て来る人達は絣を着て秋田蕗や、栗拾いをしている。

宣伝として○○美人と売り出していた花街が戦後徐々に廃れていくにつれ各地から○○美人が消えていく中、秋田美人という言葉は一般人に席を譲る事で運良く生き残る事が出来た。

舞妓、芸者だけが秋田美人と言うのではなく、一般人を『秋田美人』とした事が秋田美人生き残り最大の成功の要因。

高度経済成長期に秋田から都会への集団就職が行われる中、就職担当者たちの「秋田おばこ=美人」という宣伝の仕方が効果的だったよう。

訛りの強い秋田県人を少しでも良い就職先に就かせるために「秋田おばこは美人である事は言うまでもないが、さらに言うと雪国で育ったので我慢強い。素直で、仕事熱心である。仕事を放り出してコーヒーでも飲もうというどこかの”無責任時代”の娘サンとは全く別ですよ…」と。

かくして運良くも秋田美人は昭和を乗り切り、平成より秋田県を挙げて『あきたびじょん。』などと銘打って秋田美人をひとつのブランドとし、令和に至っている。

 

日本三大美人が秋田美人、京美人、そして博多美人なのか越後美人なのかは置いておいて、歴史に裏付けされた『京美人』のあとがあやふやな事を思うと秋田美人がそこの席にあれるのはラッキー中の超ラッキー。

しかし、それにも新たな時代の波が押し寄せている。

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2021年1月27日秋田さきがけ新聞『秋田美人もうやめない?』

2021年1月27日秋田さきがけ新聞で取り上げられた”秋田で生き延びるためのラジオシルシ―”を配信するYou Tuber、堀内しるしさんの提起『秋田美人もうやめない?』という記事からも分る様に秋田美人と言うものに(観光PRに女性を使う事へ)の一種の疑問、モヤモヤがあると言う人も少なからずいる様だ。しるしさんはこの様に語っている。

いろいろな意見があると思う。『何を言っているんだ』『そんなの気にする事ないんじゃないの』と思う人もいるかもしれません。

でも不快だなと感じる人がいることも知って欲しい。何の疑問を持たずに続けるより、今あるものを見つけ直してみることが大事だと思います。

そして紙面では記者三浦美和子さんが、この様に締めくくっている。

「秋田美人」には、外見の良しあしで女性を「ランク付け」するような価値観が、隠れていないだろうか。秋田美人に限らない。「マドンナ議員」に「美しすぎる○○」、「イクメン」「○○男子」ー。女性というだけで、男性というだけで付く呼び名や評価は本当に必要なのか。ちょっと立ち止まって考えたい。

2021年1月27日秋田さきがけ新聞#性を語る より 

元をたどせば花街の売り込みの仕方のために誕生した『秋田美人』。

花街のお座敷が少なくなり、一般人(にそれが譲られてもその言葉を我々の先輩方はしたたかに利用してきた。

 その間、川反芸妓は一度途絶えてしまう。

先輩である『秋田美人 (川反舞妓・芸妓)』の不在。花街から譲り受けたそれは一般人では観光に活かす事が出来ない。

 その空白の期間の間にPRとして使われたのが(公財)あきた観光コンベンション協会の秋田美人のポスター。

私自身はこのポスターを肯定的に捉えていた。

しかし、県外に行って自己紹介をした際に言われる『秋田美人だね!』の言葉。

私自身は指して美人でもないので、その言葉を言葉のまま受け入れる事が出来ないのもわかる。

その言葉には「ねばならない」という様な観念が含まれている気がするからだ。

そう。いつしか秋田美人という言葉は『使う側』から『使われる側』になってしまったのかもしれない。

なので秋田美人という言葉は、人によってはマイナスの感情を生み出すのだと思う。

 

秋田美人研究メモ③秋田美人の発祥の地??

先日とある本を中古で入手しました。

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タイトル:秋田美人

読売新聞社秋田支局編

三浦書店発行

昭和42年10月1日発行

の書籍。

 

今までも主に図書館などで『秋田美人』というワードで色々本を探していたのですが、見た事のない本だったので購入。

内容は「東北美人の発祥地は秋田ではないか」という郷土史研究家の推論を手がかりに、秋田の女性を史実や科学的根拠などにも基づいて解説している本で、昭和41年4月52回に渡り読売新聞東北版に連載されたものをベースに新たに編集、写真などの資料も加えた上で本にまとめたものです。

正直歴史などの知識が乏しい私にとってはまだ難しい部分が多いのですが、とても興味深く拝読しております。

その中で秋田県内の中でも『どこが発祥なのか??』について話されているのでそこについて自分なりにまとめようと思う。

 

美人にしても美人を生む土地柄がある

断言するのは『美と女と』の著者、青柳有美(秋田県出身)

 もしそれが本当ならば秋田美人を生む土地柄、それが解れば秋田美人のヒミツに一歩近づける事になるだろう。

 

秋田の美人どころを眺めていると、田沢湖の流れをくむ雄物川流域に集中していると、この本では書かれている。

みちのく小京都、武家屋敷の並ぶ角館“仙北美人”

恵まれた体系でグラマーが多い現代版(昭和40年代)“仁井田美人”

小野小町生誕の地と言われる“湯沢美人”

 

田沢湖秋田県の中東部、岩手県にもほど近いところにある日本一深い湖。水深は423.4メートル。

湖の深さで100メートル走を4回も出来ると思うと気が遠くなってしまうのは私だけ??^^;;

そして地質が沖積層と言って地球では一番新しい地層。

砂、石、粘土が程よく混じっていてこの地層を通る水はろ過されておりいずれも水が良質だという。

また川を見ると河岸段丘といって川の両側が階段の様になっている。こうした川の流域に美人が多く、そうした風土は津軽美人の中心地である青森県弘前市や、庄内美人で知られる山形県鶴岡市も全く同じという。

そして上にあげた秋田の仙北・仁井田、青森の弘前、山形の鶴岡はいずれも雪深い国。それでいて東北地方では名だたる穀倉地帯。

銘酒もウリのひとつで酒蔵も多くある。

つまり土地が豊なので余裕があるという事。

生活の豊かさ、富も美人を育んだ一因ではないかとされている。

 

たしかに豊かな生活をしていれば、さまざまな事にお金をかけることが出来ただろうなぁ。。。

人として余裕があれば寛大にもなれるし、変に固執、執着もしないだろう。

“金持ち喧嘩せず”というわけで、生活に苦しまなければ万事おっとりとした美人が生まれたかもしれない。

心の余裕も美人を育てるという事という推測ができる。

 

 

ではお金がないと美人になりにくいのか??と思ってしまう。

家が貧しくとも美しさを開花させ世界で活躍した人は実は多くいる。

いくつか例を挙げると、中学一年生で実父の会社が倒産し、「4人兄弟で1つの部屋で…。」と語るモデルの高橋メアリージュンさんや、 「母はネグレクト気味で結婚と離婚を繰り返し、3人姉妹の父親は全員違う。」と語るモデルの冨永愛さん。「7人家族で、他人の家の2階に住んでいた」というモデルのアンミカさん。ナイジェリアでホームレス中にクリエイティブディレクターの目にたまたま留まったモデルのアリ・オラクンミさん。など挙げ始めると枚挙にいとまがないとはこの事だ。

いずれも個人の持つ原石を自分自身で磨き続けた人や、周りに原石と認められた人達だ。しかし、テレビや、ラジオ、ブログ、YouTubeInstagramTwitter、発信チャンネルが多く、情報が入りやすい現在では考えられないくらい、当時(昭和初期)では『美』の情報が得にくかったと思う。チャンスが少ないのもまたしかり。

 

その時代にいて、一定の美人達がそこに存在すると言うのは本当に希少な事なのだと思う。

冒頭で紹介した”美人を生む土地柄がある”という言葉も現実味を持ってくる様に思える。

 

秋田美人研究メモ②秋田美人の歴史

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奥羽線上野~秋田間の開通1905年(明治38)

2021年2月9日の秋田魁新報で性を語るに書かれている記事をまとめると、秋田美人とは明治期から昭和初期にかけて川反で全盛を極めた川反芸者を形容する言葉だったと、秋田魁新報社編 秋田大百科事典ではされている様です。

 

明治~昭和初期それ(『秋田美人』という言葉が)鉄道の発達で広く知れ渡ったとされている。

秋田大学長の新野直吉氏(日本古代史)は著書:秋田美人の謎で「多くの人々が秋田を訪れ、川反をはじめ花柳界の秋田美人を見、帰ってからそれを宣伝する。『秋田美人の称は普遍化した』と説いている。

奥羽線上野~秋田間の開通が1905年(明治38)、その4年後の1909年(明治42)秋田県を視察した中央の記者らは「秋田は越後(新潟県)と同系の北国美人に属すると称せられる。なる程美人が多い。」「秋田美人萬歳!」と、紀行集:知られたる秋田で印象を記している。当時は花街の女性たちが出迎えや接待を担った。「秋田美人」という評価は当時すでに定着していたようです。

そして1937年(昭和7)4月の上野駅新築落成に合わせ、上野松坂屋で開かれた北日本北海道の名所展覧会では川反芸者が踊りを披露した。秋田魁新聞では秋田美人の名に恥じず美しい物であると都人士を驚かせたと伝えていたそうだ。秋田美人は観光資源だった。

≪2021年2月9日秋田魁新報 性を語る欄より≫

 

と魁新聞では伝えている。

 ここまでで、秋田美人とは川反舞妓・川反芸者の方々を差した言葉であった事がわかります。そうか。現在は車や電車、新幹線、飛行機があって当たり前だったので思いもよらなかったけど、トヨタ自動車75年史のサイトに次の様な記述があった。

3種の神器(テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機)の普及が一段落し、「3C」と呼ばれる大型耐久消費財が新たに庶民の願望の的となった。カー、クーラー、カラーテレビである。とりわけ自動車は、1960年代後半初頭の各社の1,000ccクラス大衆乗用車の充実により、マイカーブームを招来した。

トヨタ自動車75年史≫

つまり、魁新聞に書かれている1909年(明治42)当時は車も無く、気軽に来られる県ではなかったのだろう。そして奥羽線上野~秋田間の開通より都会から記者の方が来た際にお出迎えや接待をした花街の女性たちを帰ってから褒めたのが始まりという事になる。言った事のない県、「北国美人」などと言われると深々と積る幻想的なものを想像してしまう。つまり秋田美人とは秋田の花街の女性の事??

 

また、魁新聞ではこうも書かれている。

建築史家で「美人論」の著書もある井上章一氏(国際日本文化研究センター所長)によると、明治大正期の名古屋は美人の産地として圧倒的な名声を誇っていた。「評判の高さでは、秋田や新潟などをはるかに凌駕していた」(著書:大阪的)

明治初期、東京の新興花街・新橋に人材を送り込んだのが名古屋で、新橋の隆盛に伴い名古屋美人の名が普及したという。

だが昭和に入って花街が衰退すると名古屋美人の名も消える。

花街の衰退は秋田も同じはず。ではなぜ秋田美人は現在まで命脈を保っているのか。

谷川潤一郎は1911年(明治44)発表の小説「飇風(ひょうふう)」で、秋田を旅した主人公に「素人の女までが、凡て美人国のなにそむかぬあでやかさ」と語らせている。1920年(大正9)2月29日付の本紙コラムには「芸妓よりも(中略)紺黒色長手拭いを冠り、田と畑を耕して居るものに非常の美人が居る」とある。

秋田の場合、明治大正期のうちに「美人は花街だけではないぞ」との言説が流布、定着したことが一つの要因として挙げらるのではないか。

一方の名古屋は美人にこだわらなくても名古屋城、みそカツ、手羽先・・・とウリになるものが豊富にあったとも言えそうだ。

 なるほど、小説の主人公にその様に言われたら、実際に来ていなくてもなんとなくそうか、と思ってしまうのは判らなくもない。さらに芸妓よりも、田畑を耕している農家の女性にも非常の美人がいるとまであると本当に美人がそこら中にいる県だと思いますね。そう思うと先入観でそう思ってしまうのでしょうか。

例えば普通に人に紹介されるのと、「今から紹介する人、パリコレモデルだったンだよ。」と紹介されるのとでは見方が違う気がする。個性的な顔も「さすがパリコレ。」と思ってしまう。

名古屋美人があったのは驚きでした。「○○美人」と言うのは花街の売り方だったのでしょうか。秋田美人を調べるにあたり、日本に「○○美人」というものがどの位あるのかネット上ではあるが調べてみた所、主には「秋田美人・京美人・博多美人」とされている。が、他にも「越後美人」「加賀美人」「出雲美人」というのも存在しているらしい。越後も加賀も出雲も都会で確かに花街も賑わっていそう!

 

 

 

秋田美人研究メモ①秋田美人ってなんだろう??

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市女笠をかぶった秋田美人


秋田美人ってなんだろう。

ある時ふとそう思った。

秘密のケンミンショーなどのナレーションでもよく言われている『駅前の秋田美人に訊いた~』というような使われ方。

一体、いつからその様に言われる様になったのだろう。

その定義は??

京美人と、秋田美人と、博多美人と。。。

どう違うのだろう。

秋田美人はどうなったらなれるのだろう。

 

そんな事を思う様になり、私なりにそれを研究する事にした。

このブログは日々の秋田美人研究をただ書き綴る場所とします。

 

まず秋田美人と聞いて私が連想するのが、

演歌歌手の藤あや子さん、元川反芸妓の浅利京子さん、アナウンサーの相場詩織さん、You Tuberの竹脇まりなさん、タレントの佐々木希さん、元乃木坂46生駒里奈さん。

あと、これは外せない。平安時代歌人小野小町さん。

 

共通するのはなんだろうか。

発信力がある。目がパッチリしてる。人懐っこく元気。色白。ユーモアがある。

 

でもそれは秋田県民の人口が現在964,380人、女性501,210人、男性445,170人(令和3年3月1日現在秋田県公式サイト)である事を考えると一概に秋田美人の傾向とは言い難い。

では、どの様な人が秋田美人とされ、広く定着したのか。

それは秋田美人の歴史を調べる必要があるよう。

 

 

 

 

 

 

秋田美人ってなんだろう??

秋田美人ってなんだろう。

ある時ふとそう思った。

秘密のケンミンショーなどのナレーションでもよく言われている『駅前の秋田美人に訊いた~』というような使われ方。

一体、いつからその様に言われる様になったのだろう。

その定義は??

京美人と、秋田美人と、博多美人と。。。

どう違うのだろう。

秋田美人はどうなったらなれるのだろう。

 

そんな事を思う様になり、私なりにそれを研究する事にした。

このブログは日々の秋田美人研究をただ書き綴る場所とします。